故郷・山口県宇部市のこと

排他的で閉鎖的な風土に苛立っていた

 映画監督の庵野秀明氏とユニクロ柳井正氏を生んだ、そもそもは石炭の街で、いまも工業の街、山口県宇部市の旧市街地に生まれ育った。

 いまは雑草の生えた駐車場になっていて、その跡形はないけれど、かつて宇部の歓楽街の片隅には、「じゃんじゃん横丁」というホルモン焼き屋が密集する一角があった。そこでは「マンボ」という飲み物があったそうだ。「マンボ」なる飲み物は、梅酒と焼酎を割る、飲み味はいいかもしれないけれど、ただ手っ取り早く酔うことができる労働者のための酒だったようだ。一昨年前に100歳を目前に亡くなった祖母から幼いころに聞かされた話では、わたしが生まれる少し前までは、家から少し歩いた飲み屋街で地元ヤクザ同士による抗争事件も頻発していたという。いまも港のほうに足を運ぶと巨大なコンビナートが広がり、街には宇部興産(現UBE)という大きな会社があり、宇部モンロー主義という言葉もある通り、自民党政治と太いパイプを持ち続けながら、高度経済成長時代、バブル期に発展を遂げ、そして近年は衰退の一途をたどる、まさに〝失われた30年〟を象徴するかのような地方都市である。

 そんな排他的かつ閉鎖的な街で生まれ育ち、小・中学校時代はサッカーに明け暮れる日々だった。高校時代にNIRVANAの「Nevermind」を聴き、グランジ(汚い、みすぼらしい)スタイルのカート・コバーンに憧れる。

 高校時代は、映画好きの友だちと映画もよく観に行った。シネコンなんて洒落た施設はない時代で、だいたい東京など都市部で公開された売れ線の映画が半年後くらいに、街の薄汚い名画座で2本立てで上映される。当時の高校生の感覚としては邦画はダサい、洋画を観たいんだけど、選択肢は「ボディガード」とか「パーフェクト・ワールド」とか、「ホームアローン2」とか「ダイハード2」とか「ロボコップ3」とか。田舎の名画座で観ることができる映画は限られていた。友だちと本屋で映画雑誌を立ち読みしながら、「宇部では上映されんけど、タランティーノという人が監督やっちょる『レザボア・ドッグス』ちゅう映画、面白いらしいよ。東京は、いろんな映画が観れてええね」。インターネットもサブスク配信もない時代、田舎の高校生にとって東京はいまよりもずっと憧れの街だった。友だちと名画座で映画を観たあとは、宇部新川駅近くにある「じゃがいも」という喫茶店で味も分からないのにコーヒーを飲んで、それから「朋友」「田吾作」というラーメン屋にも寄って、青臭い話をしたり(実は宇部は、こってり濃厚なラーメンが名物でもある)。

 海外テレビドラマの「ツインピークス」にもはまった。でも、最後ぐだぐだで、えーこんな終わり方なん!? あの作品は、いろんな意味で衝撃的だった。

現在はシャッター通りとなった宇部・銀天街

 あと、高校時代の思い出としては、教室にエアコンが設置されていなくて、エアコン設置を公約に掲げる生徒会長候補を自分たちのグループから擁立したところ、見事にその候補者が当選したんだけど、その際、「量平、深夜ラジオにネタの投稿してちょるんやろ?」ということで、立候補演説の文章を書く係になり、それが全校生徒の前で読み上げられたら、思いの外、受けがよく、自分たちが擁立した候補が生徒会長選挙に圧勝。後日、「あの文章を書いたのは誰だ?」となり、国語の先生に職員室に呼ばれたことがあった。

「悪ふざけもほどほどに」と叱られるのかなと思ったら、「大崎、あれ、お前が本当に書いたのか? 面白かったぞ」と褒められる。そのとき、文章を書くって、結構、面白いんだってことに気がつく。当時は、家の駐車場から空を見上げると、工場の煙突から灰色の煙が噴き上げていて、工業地帯の海はどぶねずみ色、そうした景色を見るたびに、一刻も早く、この街を出たいと、鬱陶しく、窮屈に思っていたけど、いま振り返ると、通っていた高校は、時代的にも土地柄的にもおおらかで、案外、生徒の自主性を大事にしてくれる自由な校風だったのかもしれない。

北九州・小倉の思い出

 高校卒業後は1年間、浪人生活を送る。北九州市・小倉の代々木ゼミナール小倉校に通う。最寄りの宇部新川駅から小倉駅まで、電車で1時間ちょっと。仲の良かった友だちの大半は、現役で関西や九州の大学に進学していたので、自分ひとりだけが地元に取り残された気分だった。山陽本線の車窓を眺めながら、俺、今後どうなるのかな? 本当に来年、東京の大学に入学できるのかな? 通学の電車内では、『深夜特急』とか、サリンジャーとかヘミングウェイとかの小説を読んでいた。束の間の現実逃避。ただ、その当時はSNSがない時代だから、もしもいまの時代に浪人生活を送っていたら、大学デビューしてキャンパスライフを満喫する友だちの投稿を見て、焦燥感にかられていたことだろう。

 通っていた小倉は、暴力団・工藤會の拠点でもあり、一部の人たちからは、最近まで〝修羅の国〟と言われていたが、実際、その当時も元漁業業組合長が射殺される事件が起きたり、発砲事件で市民が巻き添えになることもあった。

 こんな経験がある。ある朝、予備校に走って向かっていたら、旦過市場の手前で、酩酊状態(酒のせいかのか、それとも薬のせいなのか)のどう見てもやばそうなスーツ姿の男に「ちょっと、そこの兄ちゃん」と、声をかけられて、ハッと立ち止まったら、その男は胸の内ポケットから拳銃を取り出して、銃口を向けられたことがあった。その男は「冗談だよ」とヘラヘラ薄ら笑いを浮かべて、千鳥足で旦過市場に消えていった。あの拳銃は。本物だったのか、モデルガンだったのか。

 予備校に通う浪人生の中に、家で大麻草を栽培している奴もいた。当時、小倉駅北口にラフォーレ原宿・小倉という、ここは〝修羅の国〟小倉なのに原宿ってどういうことなんだ? ネーミングからして超謎な商業施設があって、そこは昼間でも薄暗い場所だったんだけど、何浪もしている長髪の浪人生は、「そこで俺が栽培した大麻は買えるよ」と、黄ばんだ歯を見せて自慢気に話していた。

 予備校の仲間たちと小倉駅南口を出てすぐのところにあったA級小倉劇場というストリップ劇場に行き、人生で初めて、家族以外の女性の生身の裸も見た。夏競馬の時期は、授業をサボってモノレールに乗り小倉競馬場の芝生に寝転んだりもした。人生で初めて、サラブレットをこの目で見た。ストリップの踊り子さんの裸よりも、疾走する馬の体躯はもっとずっと美しかった。空が少し高く感じた。


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