1996年、東京

現実は何も変わらなかった

 一浪の末に、学習院大学(経済学部経営学科)に合格し、1996年3月末に「新山口駅」から新幹線に乗って上京。

 練馬区江古田、環七近くのまったく日の当たらないアパートで人生初の一人暮らしを開始した。晴れて大学生になったが、夏休みが明けるとほとんど大学には行かなくなった。二十歳のわたしは、東京に行ったら、自分の人生は大きく動き始めると信じていたが、現実は何も変わらなかった。新歓コンパやアルバイト、合コン、花火大会、BBQ、サークルの夏合宿など、世の中、広く一般の大学生として、一通りの通過儀礼を経験し、仲のいい友だちもガールフレンドもできたりはしたけれど、しばしば「無色の混沌」としている自分に苛立っていた。

〝親ガチャ〟という言葉があるけれど、家柄や縁故、金、容姿…など、どんなに歓喜し、一方で悲観したところで、この世の中には、どうにもならない格差や区別が存在するんだってことをありありと実感した気がする。

 自分自身の境遇を恨み、忌み嫌うようなことだけはなかったけれど、生まれ故郷や家族の繋縛と向き合って、ただ、ありのままを受け入れて、生きるだけ。理不尽で不条理な現実世界で、一個人としては、これから、どのようにサバイブしていけばいいのだろうか? 大都会・東京で漠然とそんなことを考え始めていた。

 このまま適当に大学生活を続けて、講義の合間は、学食の決まったテーブルに集まって戯れて、放課後は安い居酒屋で飲んで、夏は海やプールに行って、冬はスノボに行って、仲間内で課題のレポートを共有し合って、そつなく単位も英語やビジネスの資格なんかも取って。そんなふうに大学生活を器用にやり過ごして、そんなものだと自分自身に折り合いをつけて納得させて、やがて髪を短く切って、黒く染めて、リクルートスーツを着て、OB訪問して、面接官の前では、何もない自分を必死に着飾って、虚栄を張って自己PRして、両親や姉、親戚たち、周囲が安心するような、そこそこ知名度がある会社や組織に就職する。大学の先に続く線路。

 それこそが、本当に人生の最適解なのかなって。でも、どうしても、当時のわたしの感情は、そのような生き方には納得できなかった。とはいえ、その世間一般に流布する統計学的には正しいかもしれない最適解を覆すような信念も武器も何ひとつもない。

 二十歳の若者にできたささやかな反抗は、大学には行かないという、とても未熟で幼稚な決心だった。

どうせ地球は滅亡するんだから

 時間と若さを持て余していたので、とりあえず、アルバイトの掛け持ちを始めた。池袋駅構内の花屋だったり、書店だったり、数年後に建て壊しが決まっていた渋谷の雑居ビルの4階にあったダイニングバーだったり、環七沿いのレンタルビデオ店だったり。漠然とした不安をかき消すために、週6日、7日で働きつめた。もしも、このまま大学を中退することになったら、稼いだアルバイト代で入学金や授業料は両親に返そうと思っていた。

 バイト先で出会った6歳年上の先輩が、音楽や文学、映画やファッションに詳しい人で、その人の影響もあり池袋にあった映画館「文芸坐」や高田馬場の「早稲田松竹」、渋谷のクラブ「オルガンバー」や下北のライブハウスなどにも通い詰めた。

 96年の秋は中上健次も読み漁った。ある秋の日のこと、バイトが終わったあとに、『路地』と『紀州』の文庫本をグレゴリーの黒いバックパックに入れて、西武百貨店池袋本店前から和歌山行きの深夜バスにも飛び乗った。和歌山県新宮市や本宮町をめぐり、中上健次が自身の作品で描き続けた〝路地〟と呼んだ地区を歩いた。生まれ故郷の宇部でも根深い〝差別〟の問題があることは理解していたが、みんないろんなものを背負って生きてきた、生きているんだって。学校では、そういう問題は解消しましょう、と教えられてきたけれど、出自は隠したり偽装したりはできても、決して変えることはできない。どんなに、そこから逃げようとしても、それは亡霊のように、ずっとついてまわるものなんだって。ありありと実感した。

 当然のことなんだけれど、世の中は知らないことだらけで、割り切れないことばかりだってことに、あらためて気がつく。世の中には、別に知らなくてもいいこともたくさんあって、知らないほうが幸せだったりすることもある。けれども、わたしは、この世の中に存在する、まぶしい光もドロドロした暗黒も両方とも知りたいと思った。そのうえで、統計学的にではなく、一個人としての最適解を知りたかった。そんなものは、存在しないのかもしれないけれど。99年になったら、どうせ地球は滅亡するんだから。

 秋から冬にかけては、中目黒にあった「オーガニックカフェ」や恵比寿にあった「ヌフカフェ」や原宿の「オーバカナル」のテラス席でお茶やお酒を飲んだり。池袋、明治通り沿いの「カラオケ館」は、当時「ダンキンドーナツ」だったけど、書店のバイト帰りに仲間と立ち寄って、セルフのコーヒーをなみなみに注いで、「エヴァンゲリオン、見た?」「今度録画したビデオ貸そうか?」「最近、どんな音楽を聴いているの?」「今度サニーデイ・サービスのライブに行こう」とか。そんな他愛もない会話で西武池袋線各駅停車の終電まで時間をやり過ごしたり。

 クリスマス前に、西麻布にあったハウス・ミュージックを流す西麻布の「Yellow」に仲間たちと行ったときのこと。ラリった白人男性にしつこくつきまとわれて、無理矢理、トイレに押し込まれそうになったことがあった。そのとき、その白人男性の局部を思いっきり蹴り上げた。局部を蹴り上げたことは、今日に至るまでその1回しかない。いま振り返ってみても、まさにときは世紀末としか言いようがない時代だ。憧れていた東京で消費的かつ刹那的な日々を送っていた。

 相変わらず「無色の混沌」のままだった。


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